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    Touko Asahina/朝比奈桐子

    Author:Touko Asahina/朝比奈桐子
    A lifelong seeker of YOGA philosophy,
    The ultimate system-builder of
    the meditation and HATHA YOGA,
    40 years experiences in teaching.
    YOGA哲学の探求者であり、
    瞑想とHATHA YOGAで構成される
    システムYOGAの開発者。
    指導歴40年。

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2019/02/14(Thu)

意識と知識は、相互依存関係にある-3

ふと、深いため息が出てしまった! どうして? こうも、
「瞑想の実態」を知らないヒトばかりが、呆れるばかりの瞑想法を売り物にし、
多くの人々が高額の指導料を支払って、そのlessonに励むのであろうか?
少なからざる年月の間、その命題に取り組んできた朝比奈である。

瞑想屋の実態を探ってみると、トドの詰まりは、かつてあった歴史的醜悪事件、
オウム真理教のソレと、本質的には変わらない。
つまり、mind control 手法である! そして被害者は、mind controlされているから、
それを被害とも思えないし、社会に公表しようともしない。デキナイのである。
その闇の、あまりの深さ、広さ、お手軽さに、絶句するばかりだ!
そして、「ヒトは、これほどにも甘い言葉でチヤホヤされたいのか?!」と、呆然。
はっきり言ってしまえば、「救いようがない」。つまり、mind control段階に突入で、
この「controlを解くカギ」が作動しないように入力されて、しまっているのだ!
ああ、無情! だから、論理的にはある程度納得できるような内容でも、
意識の深層で、ガン!と、拒絶されてしまう。
そのアンヴィヴァレンスなシーソーGameが、痛々しいばかり。
そしてこちら側は、拱手傍観するしかない立場に追いやられてしまう。

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Photo by Taki Steve

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Photo by A Health Blog

「controlのカギ」とは、どのようなカギなのであろうか?
法外な金銭である! 金銭は、何段階にも要求され、まるで、
犬が投げられたボールをくわえて戻ったら、ご褒美がもらえるような仕組みだ!
ご褒美はimage概念、つまり架空(その組織内でしか通用しない)のTITLEである。
オウム真理教の○○省○○大臣のようなものなのだ。が、まさかこんなバカゲタことは
一般には通用しないから、「あなたの今の瞑想段階はコノくらいで、
あと数十時間やれば、次の素晴らしい高い段階へ行ける。
この瞑想訓練数十時間のlesson料金は▲十万円だ」ということになる。
ただ、座らせておくだけ、titleを与え、料金が入るという仕掛けだ。
「mind control !」こんなイイ? オイシイ商売はない!

ガーン! が、これは、決して笑えないseriousな事実なのだ!
それほど、titleを求め、それに幻惑される人々がいるということ。
自分自身のidentityを、「誰か・どこか」に証明してもらえないと、
生きて行けない人々なのである。
自分自身のidentityを、なぜ?「誰か・どこか」に証明してもらう必要があるのだろう?

数日間ずっと考え続けて、奇妙な結論に達した。
「自己同一性(identity)のズレ」である! と!
近年は、といっても1990年代後半ごろからだが、
やたらキラビヤカな履歴が喧伝され、美貌などが高度商品化されるようになった。
そこで、「identity」がゆらぐ人々が、少なくない状況を迎えているようだ。
その「ゆらぎ」が一方では「ウツ」の増加であり、もう一方が「identity inflation」。
Fashionや美容整形から、一歩進んで華麗なる履歴書である。

以前、朝比奈の会社に応募してきた女性の、資格マニアぶりには驚いた!
取得資格が20種以上! こうなると、十把一絡げで考査に値しない! その、
「identity」の危うさと、空疎な自己顕示欲ばかりが目立つのだから。
そして、自己顕示をすればするほど、自己のボロが噴出してくる、のだが、
ご本人は気付かない。そして、「考査」に漏れれば、
「まだ、資格が足りなかったのか!」ということで、NEXT資格にchallenge!

自己啓発は素晴らしいことだ。しかし……? と、
何の資格も持たないで、ケッコー楽しく生きている朝比奈は、
寝っころがって、ウキウキしながら『偶然性と運命』(木田元著/岩波新書)を、
また、引っ張り出して読んでいるのである。
そう、“年月を経た、ゆるぎない、世界revelの正統派知識”を血肉化することで、
怪しい甘言にグラつくことのない、
しっかりとした自己が形成されるのではないだろうか、と思う。


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2019/02/07(Thu)

意識と知識は、相互依存関係にある-2

意識が先か、知識が先かとなると、鶏と卵の関係のようだが、
ここはやっぱり、意識が先である。
というのは、意識不明状態になれば、知識なんて働きようがないのだから。
しかしこれは、身体的・組織的revelの話である。
ところが、その「働き方」となると、話はガラリと変わるのだ?

例えば、自動車にことのほか興味を持っているヒトの場合である。
車種や性能などのspecを事細かに知っている、つまり知識の豊富なオトコたちは、
アクセルを踏み込んだ時のトルクのかかり具合、
カーブを切る時の遠心力のかかり方なんかを、意識的に体感して(悦に入って)いる。
ところが、知識のないヒトの場合は、カーブで咄嗟に急ブレーキをかけて、
トンデモナイ事故を起こしてしまう。

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Photo by Martin Pettitt

つまり、前もって知識があれば、情報を認識した意識は、記憶知識と照合して、
適切な行動をとる、ということだ。とまあ、ややっこしい話だが、
ヒトでもサルでもライオンでも、意識と知識は相互依存しながら、
ウマクやっているのである。

上記は、いわば“運動神経系”の話である。そして次は、
脳内のお勉強系の話だ。こちらは、運動神経系との連動ではなく、
おおむね脳内の、情報処理関連システムである。
この部署は、「意識と知識」の大舞台、いわば戦場である。
まず、知覚領野から情報が入ってくると、ライン仕事のゾンビたちがワイワイ騒ぎだす。
彼らは単純作業者だから、ホイホイと処理済み仕事をジンボに上げる。
ジンボは、いわばcheck man。ラインの監督で、OKなら次へ上げる。
ここから先は、オイソレとは進まない。さまざまな記憶情報との照合や処理……、そう、
「前もって知識があれば、情報を認識した意識は、記憶知識と照合して、
適切な行動をとる」のである。Oh! ここは、さしずめ地獄or天国の分かれ道だ。
ということで、オベンキョーをしておくのがGood! ということになるのでは?
さあ、シコシコと極上情報を求めて、入力に励もう! つまり、
瞑想・瞑想と座り込こんでいても、成果は高が知れているのです!


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2019/02/05(Tue)

意識と知識は、相互依存関係にある-1

瞑想をする、というのは素晴らしいことだ。
しかし瞑想が、瞑目して“無”を目指すというのは、おかしいことだと思う。
「只管打坐」をはじめ、「禅」の思想や方法には、
そうした“無”に対する要求が多いように思う。
そこで朝比奈は「そもそもなぜ?“無”が必要なのだろう?」と思う。

いろいろと考えた末、気付いたのは、意識構造&精神構造の問題ではないか? と。
そして、時代・社会・文化などによって形成される
意識や精神における構造性について、考えてみることにした。

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Photo by Aarni Heiskanen

そもそも、このことを考えるキッカケになったのは、
朝比奈のおせっかいで関わることになった、ある、東北地方のヨガ教室の問題だ。
「問題解消」には、まず「現実の、より精細な実態把握」である。
驚いたのは、新幹線を利用すれば東京から1時間の、東北一の大都市なのだが、
朝比奈のドンデモナクぶっ飛んだ発想を、痛く深く反省しなければならなかったことだ。

何よりかにより、合掌して頭を下げるしかないほどの、“いいひと”たちばかりなのだ。
この狭い日本に、こんなにも“いいひと”がいたのか! と、ほとほと感動してしまった。
やがて、少なからざる問題にぶち当たった! “いいひと”というのは、
「何でも素直に受け入れてしまう」人であり、「自身がひとたび受け入れたコトには、
何にでも、どこまでも律儀を尽くす」ということらしい。
朝比奈のような情報産業に身を置く者は、つねに事々を受け入れる時点で、
かなり相対的にjudgeしていく。ところが、優しい“いいひと”は、無防備なのだ。
だから、冗談やレトリックがまるで効かない。
これは、慣れてないと、トンダコトになってしまう。ということで、
一言一句、発する時点で、とても緊張してしまう。
ああ言ったらOUTか、こう言ったらヤバイか……という具合でへとへと。

これは、生活環境・歴史・文化 etc. の微妙な違いということなのだろうが、
この狭い日本、さまざまなmediaが発達した社会の中で、痛く反省させられた。
そしてふと、情報と思考systemのリンクは、あまり無いのではないか? と。
つまり「それ知ってる」ということと、「その内容をどのように、どこまで広く深く
知っていて、それらがどのように連関できるのか」ということの違いでは? と思う。
そしてふと、これはinformation literacyの問題なのだろうか? と思う。

つづく・・・・・・


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2018/12/03(Mon)

コレ、コロンブスの卵? 瞑想は多彩だ!

これも、瞑想のご利益かも知れないが、トンデモナイことを悟った!
瞑想、禅も含めてのことだが、「無念無想」とか「只管打坐」だとか。
これらは、とんでもないレトリック(巧言)である!?
自動車の運転にたとえてみよう。
「ただ、運転席に座り、ハンドルに手をかけ、
何も指示せず、何も考えないこと」である!!


自動運転車両でも、ignition 指示をしなければ、スタートしない。
勝手に動き出したら、想定外の事故が起こるだろう。
「脳」も、同様である。「無念無想」とか「只管打坐」で、「脳クン」はどうするの?
意識機能を低下させることで、「脳」をsleep modeにするの?
確かに、ロクデモナイ想念にグタグタ振り回されているより、脳クンは休まるだろう。
しかし、それら想念が「ロクデモナイ」かどうか、をどのように知るの?
どんな「時」と「場合」に、「脳クン」はわくわくと喜ぶの?

ここまで来て、トンデモナイコト(事実)がヒラメイタ! それ、
「無念無想」」とか「只管打坐」は、「脳クン」のとてつもない能力の全否定である! と。
なぜ? 「脳クン」の能力の全否定をおすすめするの?
それは、レオナルド・ダ・ヴィンチやコペルニクスの出現を、未然に防ぐ企みでは?
何も思わず、疑問を感じず、疑わない……、これほど
為政者にとって便利な、納税者の「脳」はない!?
これは、「脳の去勢」ではないか?!

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思い・想い・考えをめぐらすことは、誰にも侵されるべきではない、はずだ。
抑留された人々が、こうした「脳の行為」にどれほど支えられ、夢や希望を紡いで
生き延びてきたことだろう!
「無念無想」や「只管打坐」を称揚する人々に、ふと、「脳自身」「心自態」の
本音に耳を傾けて欲しい、そう思う。

時に、「邪念を払う」という言葉を耳にすることがある。
「邪念」とは? 自身から浮かび上がってきた想念において、
「正・邪」とは? 心は賢い! 韜晦の名人だ。
その韜晦を見つめるうちに、本心がちらりチラリと顔を見せる。
その顔を、楽しく「見つめ」ていくうちに、さまざまな綾がほどけていく。

「脳クン」は賢く、頼りになるヤツだ。
「無念無想」どころか、博覧会を楽しむ方がいい。そのうち、
「もうダシモノがなくなっちゃったヨ」と。
「そうかぁ、だいぶ棚卸し、蔵出し、虫干し、廃棄物処分をしちゃったんだね」
「軽くなったかなぁ?」
「置き場所、しまい場所が変って便利になっただけだよ」
「ふーん。あっ! あった、あった! ほら、コレとくっついて、いいなぁ、ステキだ!」

こんな、ステキな瞑想をしてみませんか?
理論物理学者や数学者たちは、「お道具(数式・記号)」をあっち、こっちと、
自由に遊ばせて、すばらしい仕事をしています。
これが、彼らの「瞑想」timeなのです。時には散歩しながら。
「禅」の「経行(きんひん)」は、歩く動作を一つずつ覚知するのですが、
前記の学者たちは、散歩しながら数式について話しながら、ヒラメキを呼び出すのです。
運動を伴わない「只管打坐」より、無意識に歩きまわりながらの瞑想の方が効く!
★交通事情や穴ぼこなどに厳重注意!★

「無念無想」より、「脳クン」がワクワクする集中と拡散をリズミカルに行いながら、
ポーンとエサ(命題など)を放り込んであげるのもいい。
★★★情報環境・論理構造がどんどん進化している今日だから、
「脳クン」の気晴らしや楽しみ、もちろんトレーニングにも、進化が必要です!


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2018/11/30(Fri)

無責任瞑想って? どんな瞑想?

前回、朝比奈が「無責任瞑想」という表現を用いたことで、
相棒Sからツッコミが入った。「無責任瞑想って?」と。
「世間一般の、“無念無想”を標榜しているヤツの一種」と朝比奈。
つまり、なぜ、瞑想において“無念無想”をコトサラ有難がるのか? といえば、
朝比奈は度々このblogでも書いてきたが、現代人の心性は急速に変ってきているが、
残存旧人類も少なくなくて、いまだ「天城越え」をやっているからだ?
演歌「天城越え」については、このblogで述べた(→コチラ)が、
端的に言えば、「執着の強さ」を美化する方向である。

古代人は、ギリシャ人をはじめ、執着・執念が強い! いろいろ述べれば
キリがないので、超簡略化すれば、いわゆる「世間が狭い」、
「脳の思考システムに相対化概念がない」など、ということになる。
世間が狭ければ、受容される情報のvariationは少ないし、相対化概念は育たない。
したがって脳の思考回路は、遊園地の乗り物のように、単純で狭い軌道を
クルクル回っているだけで、見える景色は同じ眺めの繰り返しである。すると、
クルクルはいつの間にか内回り(左巻き)になって、身近・些末なコトばかりを
追いかけはじめる。つまり「世間が狭く」なり、クルクルが濃縮されてくると、
執着・執念が強くなるという具合。求心性に向かうと、エネルギーは濃縮され、
臨界点では爆発するか、自壊するか、となる。
この破滅を防ぐために、「禅」の“無念無想”で、執着・執念を無化せよ、と。

ということは? 「世間が広い」ヒトには、「無念無想」の価値はない?
?しかし「世間が広すぎる」と、飛び回らなければならない、つまり発散しちゃうので、
モトもコも雲散霧消してしまう? そう、「無念無想」が自然発生してしまう!
執着なんかする余裕がないのだ! これも、思慮をなくしてしまうから、
entropyを下げなければならない?
ということは、座り込んで瞑想なんかしているより、飛び回っているのがいい?
のだけれど……、そう、「動中の静」!
ほら、コマ(独楽)が高速で回っていると、
バランスが美しくまるで止まって見えるでしょ、アレ!
この状態を、朝比奈は「無責任瞑想」と呼んでいる。

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Photo by sdstrowes

すると?「責任瞑想とは、どんな瞑想?」 とS。
そう、せっかく瞑想をするのだから「責任も持ってもらわなくちゃ!」。
どんな責任? 瞑想ならではの責任? 責務? というべきか。
つまり、瞑想という「脳作業のall free状況」の中でしかできないオシゴトをする!
「脳作業のall free状況」とは? Oh!「勝手にしやがれ!」なのである!!!
自我・思い込み・信念……なんかが、みんな吹っ飛んで、
勝手に、斬新な組み合わせがデキちゃうのである。
これは予想外の素晴らしさ、名案なのだ。


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